こんばんは、ミウラです。
曜日の感覚を失い、時間の経過すらあやしく流れ去る日々にあっては28℃前後の気温は幻覚のようです。洗濯しながら足にまとわりつく夕方の湿度も札幌の6月とは思えないほど。記憶に残る夏になりそうです。
さて本日は、会期最終週末の6月20日(土)&21日(日)には会場にも設置しておりました、「612621」展へ寄稿頂いた展覧会テキストを掲載致します。本ブログ上では作品そのものについて、また実際にどのような対話によって展覧会開催に至ったかという根幹の部分については、具体的に触れることはありませんでした。このテキストはそのあたりまで読み取って頂き、背筋がのびる思いです。本当にありがとうございます。
---------------------------------------------------------------------------------
612621-「思い出」を偽装することについて
穂積利明
---------------------------------------------------------------------------------
ここは不思議な建物である。とりあえず「菊池邸建設予定地」という名称がついているが、これは将来の予定を語っているだけで、今その建物が何なのかがさっぱりわからない。
「家」のかたちをしているには違いないが、それまで人が住んでいたのか、と云われるとそうでもない。設計事務所として使っていた形跡もあるが、それもすべてではない。過去には喫茶店や文房具屋の歴史があったときくが、それも真っ白にペイントされて、無化されている。今は実にニュートラルな、何ももたない、何も機能しない、空間。
今回の「612621」の参加アーティストは、安藤文絵、小林麻美、真砂雅喜、ミウラアヤの4名。この建物にそれぞれの思いを持っている。
あるアーティストはここを「古民家」と呼び、あるアーティストは「役割を終えて行く建物」と呼ぶ。しかしながら、それぞれの思惑に反して、ここは人が連綿と生活してきた「古民家」でも、定められた「役割があった建物」でもない。ここは、何でもなかったのである。極言すると、建物の性格は真っ白く無化されているだけに、ある意味ここは美術館やギャラリーのような「ホワイトキューブ」のヴァリエーションなのである。
アーティストたちは、そこに自らの白地のキャンバスとして表現できる「自由」を感じて、誰の要請もなく、自主的にこの場所に集まってきた。完全な自由ではない。純粋なホワイトキューブと異なり、そこは「家のかたち」をしているのだから。参加した各アーティストは、無意識的に、そこに一から自らの中にある「思い出の家」をつくりあげたのである。住んでいた家の思い出を、あるいは思い出が壊されるセンチメントを喚起させるように。
この建物には、大きな窓があってそれが実に印象的だ。通りすがるひとびとは、建物内で行われることをすべて見通すことができる。これだけでも、ここは通常の「家」とは異なっている。「家」とはそこに住む人々を外部の視線から守る場所だからだ。
最初、わたしたちはこの大きく解放された窓ガラスに張られたミウラアヤの作品を目にする。彼女の作品を美術の文脈で見ることは難しい。しかしながら、ここは美術館でもギャラリーでもない。無理にアートとして位置づけるよりも、素直に、文学的視点で見てみよう。詩と小説。彼女の小説には《アイムホーム》というタイトルがつけられている。これは「ただいま」という英語の慣用表現であると同時に、「わたしは家です」という宣言でもある。そうやって、あえてここは「家」を名乗ったのである。
その小説には、ストーリーと呼べるものはほとんどない。丹念にその家に住む家族の思い出を作成し、それを追体験している。家のなかでともに暮らすこと、眠ること、食べること、闇の中で独りになること、暖まること、人を愛すること、生きること、その中で幸せになること…。小説にも詩行にも、まるで森茉莉や久坂葉子、尾崎翠、吉本ばななのように、ミウラの世代にしては過剰なほどのノスタルジックな言葉と情景がつまっている。「思い出」がここでは再生産されている。思い出は単なる視覚的な記憶ではない。訪れた人が、自らの思い出と重ね、その「記憶の家」の中で「暖まる」ように意図されている。こうしたミウラの文章を導入として展示したことは、この展覧会にとって象徴的である。
次にわたしたちが導かれるのは、ドアを経て右手。大きな窓に対して、正確に風景が反転するように描かれた、小林麻美の絵画作品である。タイトルは《通り過ぎるひとつ前》。その風景の反転は奇術のように鮮やかだ。家の中にいるひとだけが普段見ている風景が、家の外からでないと見ることができないのである。そして、それは「通り過ぎる」ことがあらかじめ意識されている。思い出は通り過ぎるものだからだ。また思い出は通り過ぎてからしか見ることができない。「ひとつ前」というタイトルには、その通り過ぎていく思い出を、ようやっとつなぎ止めようという気持ちがあらわれているかのようである。
モチーフは、やはり彼女の思い出の中にある、特に祖父を中心とした家族といる風景である。階段に、踊り場にと、中から外を、あるいは外から中を覗き込むようなスキマに置かれた作品群…小林の作品には一貫して「窃視性」というテーマがあるが、キャンバスという枠から解放された今回の作品には、覗き見という積極性よりも、むしろ病床から外をみるようなおぼつかなさ、子どもの視線のような意思の欠如を感じる。単に外から差し込む光をぼんやりと見ているだけのような。それはまさに「家」に守られていたころの幼い自分自身のイメージであろう。
小林作品と対面に置かれているのが、茶色のペイントが縦横無尽に施された安藤文絵の作品である。安藤の作品は、作家の名の下に「制作する」ものではない。むしろ安藤は「つくらないことで制作することはできないか」と考えている。作家存在は、ここでは「通り過ぎる身体」なのである。「draw/線をひく」から「Paint/塗る」へとその行為をシフトしてきたが、安藤作品の根底には一貫して描くことそれ自体が生きることという含意がある。自らが媒体となって、観覧者を促し、その生をそこで生み出し、追体験することで作品とする。
だからこそ、安藤の作品は1階の壁面作品ばかりではなく、むしろ2階の「ふとんプロジェクト」を重視しながら語られるべきであろう。ふとんやベッドなどの寝具が安藤作品にとって重要なのは、その生の一端を担う行為が寝具の上で行われるものだからである。ひとは寝具の上で生まれ、その上で休息し、その上で愛し合い、その上で病い、その上で死んで行く。そうした生の側面の象徴の場所なのである。描くことが生きることだとすると、寝具はその生の輝くような舞台としてとらえられている。
畳の間のふとんにつけられた様々な人の手の痕跡は、かつてこの場所で、さざめくような様々な生が営まれたことを想起させるように仕組まれている。
白い扉の向こうには真砂雅喜のビデオ・インスタレーションが設置されている。そこは台所とつながっていて食堂のような、あるいはトイレがあってユーティリティのような、二階につづく階段室のような、不思議な場所だ。ニュートラルな空間が多くを占めるこの建物の中で、もっとも生活の匂いのする場所と云っても良いだろう。タイトルには《corridor(回廊)》とある。通過する場所だ。ここでも「通り過ぎる」というキーワードが登場する。
真砂作品は、3つの映像の組作品になっており、ひとつにはふとんの上で休息するひとの映像、またひとつには円形の小さな穴を覗き込むと台所で作業するひとの映像、そして窓には闇にたゆたう鳶の映像が、それぞれ映し出されている。ふとんには安藤作品、覗き込むこと・窓から見ることには小林作品、また寝ること・食べることという生活行為にはミウラ作品とつながる何かが示唆されている。そういう意味では、上記の作家たちの作品を統合するような展開になっているとも云えるだろう。
真砂作品は、ほぼ等身大でつくるように意図されており、時間的にも空間的にも一見リアルにみえる。小さな覗き穴からみる台所風景も、まるで向こう側で本当に作業をしているかのようだ。しかしながらそれは実はフラットな「映像」である。そこにはやがて消え去る儚さとともに、しょせん映し出された「偽装」に過ぎないことがつよく意識されている。単なる「家」の現実を映し出したのではない。手の届かない何かを映し出したのである。闇のなかに遠くはばたいて消える鳥のように。
そういう意味では「家という思い出の偽装」を、もっとも知的にとらえていた作品だと云えるかもしれない。
こうした「建築」を題材にしたアートというものは、性格上「サイト(場)」を重用視し、場所特有の記憶を掘り起こそうとする。それを「サイトスペシフィック・アート」と呼び、行政的な地域振興や古い建物の保存運動と軌を一にするかのように花盛りになっているけれど、どこか「ご当地ソング」や「観光地ミステリー小説」のような、ある種の欺瞞性が感じられたりもする。
「家」ではなかったニュートラルな建築物に、おのおのの「家」を偽装しようとした今回の展覧会は、そうした欺瞞からは、かろうじて免れているのではないだろうか。
(美術批評家/キュレーター)
※撮影:minaco.