2009年8月6日木曜日

作品紹介#004 -真砂雅喜篇

高校時代からの友人が今、一時帰国しており2年ぶりに会う。彼女はドイツで6〜7年働いて、今年フランス人男性と結婚し、現在はスイス在住。二人は何語で話しているんだろう、と常々思う。ドイツ語?いっそ英語?まさかフランス語?想定しているのは「日本語じゃないだろうね」ということくらい。


数年前に、出張先のイタリアはミラノで彼女と待ち合わせたことがあって、ミラノの外れの小さな小さな民宿に素泊まりし、深夜過ぎにピザとメインディッシュを一人一皿ずつ食べているカップルを横目に、「本当に申し訳ない」と言いながら一皿のパスタを二人で分けて食べた。

あのとき、私たちは知らぬ間に逞しくなったんだなあと感じた。肌の色も言葉も生まれも育ちも異なる様々な人たちと出会い、ともに過ごし、自分たちなりに生きる力と人生を楽しむことを身につけてきた気がして。


作品紹介四日目、最終日は真砂雅喜の作品を。

参考テキスト:"612621 -「思い出」を偽装することについて"







※撮影:minaco.






2009年8月5日水曜日

作品紹介#003 -安藤文絵篇

8/5、ビアガーデンがものすごいことになっていました。

大通公園のブラックマントラより西側にある白い滑り台では、いっぱいの子どもたちが遊んでいて、紛れて大人も大はしゃぎ。子どもはすぐに頭に汗をかいて髪も生え際も濡れますが、なんであんなにかわいらしいのでしょうね。一生懸命になって遊んでいるのをみると、ああ夏休みなんだなあと実感します。


作品紹介後半の三日目は、安藤文絵の作品です。

参考テキスト:"612621-「思い出」を偽装することについて"







※撮影:minaco.




2009年8月4日火曜日

作品紹介#002 -小林麻美篇

8/4の札幌は、「待ってました!」と多くの人が感じるほどの夏日でした。

私ミウラはうっかりふらふらと、ランチは南1条西8丁目にできたシンガポール料理(狸小路にある店舗の姉妹店で、こちらは食堂的。価格もね♪)でした。額にじんわりと汗をかきながら、少し離れた席で回り続ける昼過ぎの扇風機越しにみつめる白っぽいアスファルトに浮かんだ街路樹の濃い影は、まるで、本当に、一瞬のまぼろしのようでした。


作品紹介二日目の本日は小林麻美の作品です。

参考テキスト:"612621-「思い出」を偽装することについて"







※撮影:minaco.

2009年8月3日月曜日

作品紹介#001 -ミウラアヤ篇

ミウラですこんばんは。

8月も湿気の日が多い予想がでています。ビヤガーデンが始まってからというもの、なかなかパッとしない天候が続いていますが、しかし、ビールは湿度のあるほうがススムのはなぜでしょう。


さて、本日より4日間は本展出品作品を画像でご紹介致します。極力全貌は掲載せずに来たのですが、そろそろ「612621」展のブログとしても終焉に入りたいと思います。展覧会でご覧頂いた方、初めて本ブログでご覧になる方など様々ないらっしゃることと存じますが、作品に対するコメントは記載せず、画像だけでお楽しみ頂こうと思っております。

もし参考テキストが欲しいなあ、という方は本ブログに掲載しておりました "612621-「思い出」を偽装することについて"を併せてご覧ください。


まず初日は私、ミウラアヤの作品です。






※撮影:minaco.





2009年7月14日火曜日

新聞掲載の報告



こんばんは、お久しぶりですミウラです。

展覧会としてはとうに終了した「612621」ですが、現在も個々のテンポと感覚などにより考えています。関連トークイベントのタイトルであった「菊池邸建設予定地とは何なのか?」について。そのうち、また更新されるかもしれません。


さて、本日は新聞掲載の事後報告です。

7月13日(月)付け北海道新聞・朝刊のp15文化面「北海道アートエリア21世紀」にて、真砂雅喜が紹介されました。主に本展「612621」での作品「A hawk who hangs about in the corridor」について書かれ、見出しは「無人の家に人の気配投影」。真砂のビデオ・インスタレーションがどういう表現作品なのか、ということにも冒頭で触れてあります。


まだ一度もブログを書いていない真砂が、今後報告日記を書くのか否かはさて置き(笑)、記事は機会があればぜひご覧ください。


※写真:真砂雅喜「A hawk who hangs about in the corridor」

 撮影:minaco.


2009年7月3日金曜日

展覧会のその後 ー殺人事件!?

安藤です。

昨晩とてもショッキングなメールが菊池さんから来ました。「展覧会の会場で殺人事件が起きて、警官が10人以上捜査に押し掛けて来た....」と。
詳しく聞くと第一発見者は学校帰りの高校生で、外の窓から中に置いてあるソファーに血のりがべったり...。すぐ警察に通報したそうです。

犯人は.....................。


私、の作品です。


薄暗い部屋の中が見えた時に茶色い絵の具が血のりに見えてしまったみたいです。
幸い、会場に仕事で菊池さんがいらっしゃり、こられた警官の方々に中を案内して、展覧会があったことを説明してくださいました。いなかったらどうなったんだろう......。

う〜ん。それを考えたら怖い..。
あ、怖かったのは私の作品か。

すぐ会場に飛んでいって、応急処置として、窓に目隠しの紙を貼って、簡易の手書きの説明文を掲示しました。それにしても、自分の作品がこんな騒ぎを起こすとは....。考えてもいなかったことなのでかなりの衝撃です。
お騒がせしたみなさま申し訳ありません。
とくに菊池さんには私は足を向けて寝ることが出来ません。本当に申し訳ありませんでした。

m(_ _)m

それにしても、気になるのは通報した少年。
今はどんな気持ちで何をしているのだろう......。
多感で自意識と羞恥心にあふれた世代。
トラウマにならないと良いのですが...。



2009年6月26日金曜日

612621-「思い出」を偽装することについて



こんばんは、ミウラです。
曜日の感覚を失い、時間の経過すらあやしく流れ去る日々にあっては28℃前後の気温は幻覚のようです。洗濯しながら足にまとわりつく夕方の湿度も札幌の6月とは思えないほど。記憶に残る夏になりそうです。

さて本日は、会期最終週末の6月20日(土)&21日(日)には会場にも設置しておりました、「612621」展へ寄稿頂いた展覧会テキストを掲載致します。本ブログ上では作品そのものについて、また実際にどのような対話によって展覧会開催に至ったかという根幹の部分については、具体的に触れることはありませんでした。このテキストはそのあたりまで読み取って頂き、背筋がのびる思いです。本当にありがとうございます。


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612621-「思い出」を偽装することについて
穂積利明
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ここは不思議な建物である。とりあえず「菊池邸建設予定地」という名称がついているが、これは将来の予定を語っているだけで、今その建物が何なのかがさっぱりわからない。
「家」のかたちをしているには違いないが、それまで人が住んでいたのか、と云われるとそうでもない。設計事務所として使っていた形跡もあるが、それもすべてではない。過去には喫茶店や文房具屋の歴史があったときくが、それも真っ白にペイントされて、無化されている。今は実にニュートラルな、何ももたない、何も機能しない、空間。


今回の「612621」の参加アーティストは、安藤文絵、小林麻美、真砂雅喜、ミウラアヤの4名。この建物にそれぞれの思いを持っている。
あるアーティストはここを「古民家」と呼び、あるアーティストは「役割を終えて行く建物」と呼ぶ。しかしながら、それぞれの思惑に反して、ここは人が連綿と生活してきた「古民家」でも、定められた「役割があった建物」でもない。ここは、何でもなかったのである。極言すると、建物の性格は真っ白く無化されているだけに、ある意味ここは美術館やギャラリーのような「ホワイトキューブ」のヴァリエーションなのである。
アーティストたちは、そこに自らの白地のキャンバスとして表現できる「自由」を感じて、誰の要請もなく、自主的にこの場所に集まってきた。完全な自由ではない。純粋なホワイトキューブと異なり、そこは「家のかたち」をしているのだから。参加した各アーティストは、無意識的に、そこに一から自らの中にある「思い出の家」をつくりあげたのである。住んでいた家の思い出を、あるいは思い出が壊されるセンチメントを喚起させるように。

この建物には、大きな窓があってそれが実に印象的だ。通りすがるひとびとは、建物内で行われることをすべて見通すことができる。これだけでも、ここは通常の「家」とは異なっている。「家」とはそこに住む人々を外部の視線から守る場所だからだ。


最初、わたしたちはこの大きく解放された窓ガラスに張られたミウラアヤの作品を目にする。彼女の作品を美術の文脈で見ることは難しい。しかしながら、ここは美術館でもギャラリーでもない。無理にアートとして位置づけるよりも、素直に、文学的視点で見てみよう。詩と小説。彼女の小説には《アイムホーム》というタイトルがつけられている。これは「ただいま」という英語の慣用表現であると同時に、「わたしは家です」という宣言でもある。そうやって、あえてここは「家」を名乗ったのである。
その小説には、ストーリーと呼べるものはほとんどない。丹念にその家に住む家族の思い出を作成し、それを追体験している。家のなかでともに暮らすこと、眠ること、食べること、闇の中で独りになること、暖まること、人を愛すること、生きること、その中で幸せになること…。小説にも詩行にも、まるで森茉莉や久坂葉子、尾崎翠、吉本ばななのように、ミウラの世代にしては過剰なほどのノスタルジックな言葉と情景がつまっている。「思い出」がここでは再生産されている。思い出は単なる視覚的な記憶ではない。訪れた人が、自らの思い出と重ね、その「記憶の家」の中で「暖まる」ように意図されている。こうしたミウラの文章を導入として展示したことは、この展覧会にとって象徴的である。


次にわたしたちが導かれるのは、ドアを経て右手。大きな窓に対して、正確に風景が反転するように描かれた、小林麻美の絵画作品である。タイトルは《通り過ぎるひとつ前》。その風景の反転は奇術のように鮮やかだ。家の中にいるひとだけが普段見ている風景が、家の外からでないと見ることができないのである。そして、それは「通り過ぎる」ことがあらかじめ意識されている。思い出は通り過ぎるものだからだ。また思い出は通り過ぎてからしか見ることができない。「ひとつ前」というタイトルには、その通り過ぎていく思い出を、ようやっとつなぎ止めようという気持ちがあらわれているかのようである。
モチーフは、やはり彼女の思い出の中にある、特に祖父を中心とした家族といる風景である。階段に、踊り場にと、中から外を、あるいは外から中を覗き込むようなスキマに置かれた作品群…小林の作品には一貫して「窃視性」というテーマがあるが、キャンバスという枠から解放された今回の作品には、覗き見という積極性よりも、むしろ病床から外をみるようなおぼつかなさ、子どもの視線のような意思の欠如を感じる。単に外から差し込む光をぼんやりと見ているだけのような。それはまさに「家」に守られていたころの幼い自分自身のイメージであろう。


小林作品と対面に置かれているのが、茶色のペイントが縦横無尽に施された安藤文絵の作品である。安藤の作品は、作家の名の下に「制作する」ものではない。むしろ安藤は「つくらないことで制作することはできないか」と考えている。作家存在は、ここでは「通り過ぎる身体」なのである。「draw/線をひく」から「Paint/塗る」へとその行為をシフトしてきたが、安藤作品の根底には一貫して描くことそれ自体が生きることという含意がある。自らが媒体となって、観覧者を促し、その生をそこで生み出し、追体験することで作品とする。
だからこそ、安藤の作品は1階の壁面作品ばかりではなく、むしろ2階の「ふとんプロジェクト」を重視しながら語られるべきであろう。ふとんやベッドなどの寝具が安藤作品にとって重要なのは、その生の一端を担う行為が寝具の上で行われるものだからである。ひとは寝具の上で生まれ、その上で休息し、その上で愛し合い、その上で病い、その上で死んで行く。そうした生の側面の象徴の場所なのである。描くことが生きることだとすると、寝具はその生の輝くような舞台としてとらえられている。
畳の間のふとんにつけられた様々な人の手の痕跡は、かつてこの場所で、さざめくような様々な生が営まれたことを想起させるように仕組まれている。


白い扉の向こうには真砂雅喜のビデオ・インスタレーションが設置されている。そこは台所とつながっていて食堂のような、あるいはトイレがあってユーティリティのような、二階につづく階段室のような、不思議な場所だ。ニュートラルな空間が多くを占めるこの建物の中で、もっとも生活の匂いのする場所と云っても良いだろう。タイトルには《corridor(回廊)》とある。通過する場所だ。ここでも「通り過ぎる」というキーワードが登場する。
真砂作品は、3つの映像の組作品になっており、ひとつにはふとんの上で休息するひとの映像、またひとつには円形の小さな穴を覗き込むと台所で作業するひとの映像、そして窓には闇にたゆたう鳶の映像が、それぞれ映し出されている。ふとんには安藤作品、覗き込むこと・窓から見ることには小林作品、また寝ること・食べることという生活行為にはミウラ作品とつながる何かが示唆されている。そういう意味では、上記の作家たちの作品を統合するような展開になっているとも云えるだろう。
真砂作品は、ほぼ等身大でつくるように意図されており、時間的にも空間的にも一見リアルにみえる。小さな覗き穴からみる台所風景も、まるで向こう側で本当に作業をしているかのようだ。しかしながらそれは実はフラットな「映像」である。そこにはやがて消え去る儚さとともに、しょせん映し出された「偽装」に過ぎないことがつよく意識されている。単なる「家」の現実を映し出したのではない。手の届かない何かを映し出したのである。闇のなかに遠くはばたいて消える鳥のように。
そういう意味では「家という思い出の偽装」を、もっとも知的にとらえていた作品だと云えるかもしれない。

こうした「建築」を題材にしたアートというものは、性格上「サイト(場)」を重用視し、場所特有の記憶を掘り起こそうとする。それを「サイトスペシフィック・アート」と呼び、行政的な地域振興や古い建物の保存運動と軌を一にするかのように花盛りになっているけれど、どこか「ご当地ソング」や「観光地ミステリー小説」のような、ある種の欺瞞性が感じられたりもする。

「家」ではなかったニュートラルな建築物に、おのおのの「家」を偽装しようとした今回の展覧会は、そうした欺瞞からは、かろうじて免れているのではないだろうか。
(美術批評家/キュレーター)



※撮影:minaco.






2009年6月22日月曜日

最後の一日。菊池邸建設予定地とは。←小林麻美より




恥ずかしいことながら、最後の最後に、倒れてしまいました…小林です。
最終日、不在の間に御来場くださったみなさん、本当に申し訳ありませんでした。
昨日は絵画教室を一つ辞めてでも、体力づくりに励まねば、と意を決しました。
最後の大仕事が二つ残っています。
私にとっては、まだ、この展覧会、半分終わってないような気持ちです。

まず、その一つ目の仕事。
小林麻美にとっての「菊池邸建設予定地とは何なのか」を考えてみます。
今回私は、この会場が、人が介在しやすい場所である、と強く思いました。
それは、来場する人が、何かしらのきっかけで、自分の思い出を語りだし、
回数を重ねて来場してくれた人が自分が関った場所として、作品のこと、
場所のことを説明してくれている姿を目にするうちに、感じたことです。
作家が主役でなくなる会場というのは、清清しいなあ、とひとしきり。
それから、場所が許してくれること、があります。
私達に実験を許してくれ、来る人が長く滞在することを許してくれ、
個人の話をたくさんすることを許してくれる。ここは開けた場所でした。

それは、オーナーの菊池さんの人柄にも似ています。
今回の私の作品のきっかけは、何気ない彼の一言が全て発端になっています。
おそらく本人も気にもしていない言葉。

「この木何て名前の木かなぁ。どんな風に延びるのかなぁ。」

「ここから見える景色にちょっと期待しているんだよね」

「うちもたんぽぽ咲いている。建物と舗装のわずかな隙間から」

私にとって、菊池邸建設予定地での作品は、その主である菊池さんが、
こぼした一瞬と、それに接した自分のひとときを留めようという試みでした。
(それは結果、「今、自分の眼前に広がる生」に立ち返ることになったのですが…)
私が、完成するであろう菊池邸を思い描く時、
「菊池さんとは、どんな人間なのか」
「菊池さんとは何を大事にして生きている人なのか」そういう思いへと導かれていきました。

菊池邸建設予定地は
○建築の絶望を知っている場所です。

○ささいな喜びを気付かせてくれる場所です。

○完成されていないからこそ人が解放される場所です。

○建築事務所でもなく、住居でもなく、勿論、ギャラリーでもありません。

○ 次にどうなるのか、受け入れる準備が整った「説明のつかない場所(※1)」です。

○私が一度死んで生まれた場所、としての「古民家(※2)」です。

※1「説明のつかない場所」とは菊池さんのブログから引用させて頂きました。
http://ie-wanwan.blogspot.com/2009/06/blog-post_07.html
※2「古民家」の定義は以前の投稿で触れています。
http://612621.blogspot.com/2009/05/blog-post.html



最後に・・・

私にアートの役割を教えてくれ、叱咤激励してくれた真砂さん
抱える悩みをいつも等身大で受け止めてくれた安藤さん、
言葉なき愛情で支えてくれたアヤさん
アーティストのするべきことを批評家がするべき事を通して教えてくれる穂積さん、
焦る私をいつも急かさずにいてくれる保科さん、
このような機会をあたえてくださり、 多方面から多大なご協力を頂きました菊池さんご夫妻に心から感謝申し上げます。





最終日とクロージングパーティー



おはようございますー(切ないけれどややテンション低め)。

ミウラは昨晩より風邪をもよおしまして、けふはこれから風邪休養をとらせて頂きます。喉も痛いし鼻水は出るし、耳は遠いし、プルーンと間違って噛んだ舌の奥の跡が痛いし、頭痛はするしで風邪オンパレードです。麻美ちゃんも実は風邪と季節替わりの喘息とで最終日は病院にしばし滞在しておりました。


昨日で終了いたしました「612621」展は本当に多くの方々に足を運んで頂き、たくさんの出会いがあって、菊池さんご夫妻の大きな支えとご協力のもと素晴らしい会期となりました。まずはこの場をお借りして心から感謝を申し上げます。


私にとって初体験づくしでしたが、一度足を運んでくださった方々がお友達を連れていらしたり、何度も来てくれたり、「○○さんに勧められまして」と週末の合間を縫っていらしてくれたり本当に嬉しかったです。「これは安藤さんの、こういう作品なんですよ」と説明していたら、なんと安藤さんのご両親だったり、嬉しはずかしエピソードもいっぱいできました。



19時で終了したあとは、「夏至」を理由にクロージングパーティーへ突入しました。オープニングとは異なった顔ぶれでしたが、やはり和気藹々とした雰囲気のなか「大人って素敵だよね」「素敵な大人がいっぱいいて欲しいよね」という会話もちらほら。何の話の時かは忘れましたが、ここで過ごした時間や出来事と相まって、感極まりちょっと泣きました。



会期中、二階の設計事務所(跡)スペースを作家らの休憩室として使用させて頂いていたのですが、この場所で来訪者のみなさんとコーヒーやお菓子をつまみながら、あ、場合によって昼間からワインを空けたりして一緒に過ごし、話をし、笑ったり真剣な話をたくさんしました。あんなに皆さんとストレートに様々な事象や現実、未来の話をできたのは何故だったのでしょう。アートだけではなく、建築の話だったりデザインだったり、人生のことだったり祖父母や家族の話だったりと世代も性別も職種も越えて様々でしたが、どれも繋がっている気がしました。


また想い出して書くと思います。


みなさま、本当にありがとうございました。






2009年6月20日土曜日

6/21 最終日

こんばんは、ミウラです。

あいかわらずギリギリの告知と報告ですが、明日6/21が「612621」最終日となりました。本日もたくさんの方々にお越し頂き、楽しく話も盛り上がり多くの貴重な出会いと時間を過ごすことができています、本当にありがとうございます。


そして本日6/20、展覧会に関するテキストを会場におきました。本展会期中としては6/20&21のみの設置ですが、お持ち帰り頂けるようA4サイズにし、エントランス付近に配置しました。併せて鑑賞頂ければ幸いです。



ちなみに、6/19には一部作品記録撮影が行われました。m.さんありがとうございます。引き続きよろしくお願い致します。私は所用で現場に同席できなかったのですが、あー、どんなふうになっているのでしょうか。とても楽しみです。







2009年6月19日金曜日

壊されて行く家を使うこと

安藤です

わたしは、見捨てられて行くもの、壊されて行くものに、非常に心が動かされます。

ラインプロジェクトの時もそうでした。

人に見捨てられてしまいそうな一枚の紙の上に書かれた一本の線。

それが、視点をかえるだけで作品という特別なものに変わる。

それが、わたしにとって一番引かれるところでした。

612621の「壊される予定の家」はその紙一枚と同じようにわたしの心の琴線を震えさせました。
それは、絵を描く人がキャンバスやパネルを選ぶようなものであり、また、彫刻家が粘土や大理石を選ぶようなもの。

形が無くなり、忘れ去られてしまう切なさ。

役目を終え、その存在を消されてしまう、やり切れなさ。

それが、視点を変え手を加えることで一瞬でも違うものとなり特別な空間となる。

それを、記憶にとどめる。

そんなことは出来るのだろうかというのがこの「壊されて行く家」を使うことの動機でした。

何か大それた、大義名分がある訳ではなく、「壊されて行く家」に、わたしには、人の生の果敢なさと尊さにも通ずるような気がして惹かれ、何かをしたいと思ったのでした。



2009年6月18日木曜日

突然の訪問者


未だに作品を展開させている安藤です。

今日も、地道に会場を締めたあとちまちまと作業を進めていました。

そんなところに、なんと突然うれしい訪問者が....。

北大生のお二人が「ここは何なんですか?」声をかけてくださり、ここぞとばかりに小林さんと2人で若者を会場に引きずり込み、作品を見せまくり説明しまくりました。

通りすがりで会場に立ち寄ってくれたのはこの2人が始めて。
この若者の開かれている心の状態に感動をおぼえ、また励まされました。

612621のblogを紹介もし、また、彼らの鳴子のチームの踊りをYouTubeで見せてもらったり....。相互の情報の交換もあったりして。なんとも清々しい楽しいひとときでした。

また、お友達をつれて会期中に来てくださいね〜。



言葉をつむぐ人

コバヤシです。 今日は、たくさんの会場写真を撮り、次々と会場レビューをアップしてくれているため、 なかなか姿がうつっていない、ミウラアヤさんの写真をアップしたくてPCに向かっています。

会場にある彼女の作品は「読む」というプライベートな行為を外に向かって発信してしまうような、 不思議な体験をする作品です。

写真は会場で執筆中の彼女。

「没頭する」作業とは無防備なものです。

描くにしろ、書くにしろ、安藤さんのワークショップの子供達も、

この会場では、みんなが無防備な姿をさらけていきます。                 

絵は声無き詩、詩は有声の絵。恩師がよく言っていた言葉です。               

詩人のように先陣をきって、画家のように先陣をきって、人生を踊り唱える勇気。

「他」に、もしくは「多」に異を唱えることなく、たんたんと自分の仕事をする。

無防備でいるには強さが必要だなぁ、と思います。

それから、周囲や、人や、社会を信じることも。


2009年6月17日水曜日

オープニングパーティーのこと


怒濤の事後報告、ミウラです(笑)。


6/13(土)はまず、昨日の報告にもあったとおり、安藤さんの「Painting Project 2 ( futon project )」があってあっという間に布団が真っ茶色になりました。久々に快晴となった土曜で、足を運んでくださった方々と昼過ぎより盛り上がりながらそのまま18時からのオープニングパーティーになだれ込んだカタチとなりました。



ワインやシャンパン、ビール、おつまみ、オリーブ各種、和三盆など色々とご持参頂きながら適度な人数でわいわいと、大人のオープニングとなりました。最初は立食でやっていたのですが、そのうちテーブルの脚板をたたんで「ちゃぶ台」にかえ、みんなで座ってお喋りしました。

菊池さんも「かっこよかったよね」と仰るくらいに大人のパーティーだったのです。みなで会話を楽しみ、様々な話を共有したり、また個々の話題に戻ったり。隣の会話や離れたところの会話に垣根の全くない感じで、人との距離感も気持ちよい時間でした。二階で寝袋にくるまりながら色々話をしてみたり。



そんなこんなで、明け方にはいつのまにか雨が降っていて、片づけ終わって寝袋で私が眠ったのは5時。前夜の最終電車を逃した10代の若者と真砂さんは7時半ころまで隣り合ってぽつぽつとお話をしていたそうです。


みなさん、本当にありがとうございました。素敵な出会いと楽しい対話と貴重な時間に感謝します。


あ〜それにしても、毎日毎日いろいろなお土産や差し入れを頂きまして嬉しい限りです。ぽわん。





2009年6月15日月曜日

futon project

安藤です

展覧会が先週の金曜日のレクチャーから始まりあっという間に4日が過ぎました。

6月13日のワークショプには子ども5人大人5人が参加してくださり、子どもたちが来た時は、みんなが同じタイミングに来てくれたので、小さな4畳半がぎゅうぎゅうになりました。
さすがの子ども達も、最初は真っ白な布団にドキドキ。絵の具を手につけてもなかなか思い切ってぬることができません。子どもの頭にも「やってはいけないチェーン(鎖)」がしっかりと頭に巻き付いているのです。


わたしがチューブをひねってびゅ〜っと布団に飛ばしたら、彼らの頭に巻き付いていた「「やってはいけないチェーン(鎖)」が”ブチブチ!”という音をたてて切れました。3回ぐらい同じ事を子ども達の前でやったらもう全員パワー全開!
一緒に来たお母さん達がハラハラしているのも何のその。真っ白な布団はあっという間に泥、いや、絵の具だらけ。

とてもパワフルですごい空間になりました。


Photo by ミウラアヤ


関連トークイベント


みなさま、ミウラです。

「オープニング2日前です」報告日記から5日も経過してしまいました。その間に、当然ながら(?)不眠不休かつ壊れがちなオープニング前夜を乗り越え、そのまま「612621」の朝を迎えました。


その間、何をしたか憶えていないまま(ああ、女子は交互に着替えに行きました)あっという間に19時から北大でトークイベント。私が司会進行を行ったのですが、改めて難しいなあと痛感しました。学生さんが多いかしらんと思っていたのですが、蓋をあけてみると30~50代という大人たち。

あわあわ、です。




今更言い訳じみていますが、ほとんど寝ずに挑んだ場で感極まった作家が2名ほどおりました。どういうお客様がいらっしゃるのだろうと、最初に聞いちゃおうかとも思ったのですがそんな余裕すら自分のなかに見いだせず、当日の各者のプレゼン内容から質問の糸口を探すのがせいいっぱいでした。どんな質問をすると、アーティストの話をお客様が理解できるところまで近づけていけるのか、など勉強させて頂いた感じです。いやあ~切ない、いや、つたない。

しかしながら、金曜の夜にも関わらず40名ほどの方々が足を運んでくださいました。本当にありがとうございました。質問を下さった学生の皆さんもありがとうございます!

「菊池邸建設予定地とは何なのか?」

という問いを、初日時点で各者に問いました。最終的にはどんな思いと答えになっているのか、自分自身で楽しみです。


でトーク後は、会場で引き続き打ち上げの場を準備頂き23時半頃まで、お越し頂いた方々とお話しをさせて頂きました。中学校時代の同級生・Yちゃんがオーナーであるcafe me, Weのケイタリングと一緒におよそ20種にのぼるワインを楽しみました。


実はそれほどでもないと思っていたのですが、けっこうストレスフルになっていたらしく、木曜夜~土曜夜まで左目の眼球が充血して痛かったんです...土曜6月13日のオープニングパーティーにたどり着く頃にはすっかり治っていましたが。


では追って、会期中もブログアップしていきたいと思いまーす。