2009年6月22日月曜日

最後の一日。菊池邸建設予定地とは。←小林麻美より




恥ずかしいことながら、最後の最後に、倒れてしまいました…小林です。
最終日、不在の間に御来場くださったみなさん、本当に申し訳ありませんでした。
昨日は絵画教室を一つ辞めてでも、体力づくりに励まねば、と意を決しました。
最後の大仕事が二つ残っています。
私にとっては、まだ、この展覧会、半分終わってないような気持ちです。

まず、その一つ目の仕事。
小林麻美にとっての「菊池邸建設予定地とは何なのか」を考えてみます。
今回私は、この会場が、人が介在しやすい場所である、と強く思いました。
それは、来場する人が、何かしらのきっかけで、自分の思い出を語りだし、
回数を重ねて来場してくれた人が自分が関った場所として、作品のこと、
場所のことを説明してくれている姿を目にするうちに、感じたことです。
作家が主役でなくなる会場というのは、清清しいなあ、とひとしきり。
それから、場所が許してくれること、があります。
私達に実験を許してくれ、来る人が長く滞在することを許してくれ、
個人の話をたくさんすることを許してくれる。ここは開けた場所でした。

それは、オーナーの菊池さんの人柄にも似ています。
今回の私の作品のきっかけは、何気ない彼の一言が全て発端になっています。
おそらく本人も気にもしていない言葉。

「この木何て名前の木かなぁ。どんな風に延びるのかなぁ。」

「ここから見える景色にちょっと期待しているんだよね」

「うちもたんぽぽ咲いている。建物と舗装のわずかな隙間から」

私にとって、菊池邸建設予定地での作品は、その主である菊池さんが、
こぼした一瞬と、それに接した自分のひとときを留めようという試みでした。
(それは結果、「今、自分の眼前に広がる生」に立ち返ることになったのですが…)
私が、完成するであろう菊池邸を思い描く時、
「菊池さんとは、どんな人間なのか」
「菊池さんとは何を大事にして生きている人なのか」そういう思いへと導かれていきました。

菊池邸建設予定地は
○建築の絶望を知っている場所です。

○ささいな喜びを気付かせてくれる場所です。

○完成されていないからこそ人が解放される場所です。

○建築事務所でもなく、住居でもなく、勿論、ギャラリーでもありません。

○ 次にどうなるのか、受け入れる準備が整った「説明のつかない場所(※1)」です。

○私が一度死んで生まれた場所、としての「古民家(※2)」です。

※1「説明のつかない場所」とは菊池さんのブログから引用させて頂きました。
http://ie-wanwan.blogspot.com/2009/06/blog-post_07.html
※2「古民家」の定義は以前の投稿で触れています。
http://612621.blogspot.com/2009/05/blog-post.html



最後に・・・

私にアートの役割を教えてくれ、叱咤激励してくれた真砂さん
抱える悩みをいつも等身大で受け止めてくれた安藤さん、
言葉なき愛情で支えてくれたアヤさん
アーティストのするべきことを批評家がするべき事を通して教えてくれる穂積さん、
焦る私をいつも急かさずにいてくれる保科さん、
このような機会をあたえてくださり、 多方面から多大なご協力を頂きました菊池さんご夫妻に心から感謝申し上げます。





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